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ジェーン・バーチ
このような場で自分の証を伝える機会が与えられ、預言者ジョセフ・スミスが伝えたイエス・キリストの福音をなぜ私が信じているのかについて、深く考えるように仕向けてくれたことを感謝しています。私は教会員の家庭に生まれ、育てられ、これまでに一度も、一時たりとも、教会を離れることなど考えたことはありません。でもなぜなんでしょう。なぜ末日聖徒の説く福音が私をしっかりと捉えて離さないのでしょうか。これらの真理にどうして共鳴するのでしょうか。どうしてこの大儀のために私の一生を喜んで捧げようと思うのでしょうか。私の永遠の救いがかかっているという時に、なぜこの道に身を捧げることに疑念やためらいはないのでしょうか。これまでのところ、答えを求めて深く調べなければならない理由は何もありませんでした。これが疑いもなく真実であると硬く信じています。
このような疑問について考えながら、私が信仰を持っている数々の理由について深く吟味してみました。そのすべてが良きものであり、正当であると思います。この福音は揺るぎないもの、道理にかなったもの、すばらしく、奥深いものです。良き実を結ぶものであり、その真実性を御霊が証しているのを感じます。これらすべて、そしてさらにもっと多くが信じる理由ですが、これほど熱烈に信じる理由は何でしょうか。なぜこんなに熱意をもって信じるのでしょうか。一番率直な答えは、計り知れない喜びで満たしてくれるから、でしょう。
若いときから教えられてきたイエス・キリストの福音は、私に計り知れない喜びを与えてくれ、今でも与え続けています。完全に快い、魂を満足させる感覚や思い、願望で私を満たしてくれます。これらの真理は私の魂に喜びと感謝の気持ちを与えてくれます。記憶にある限り、私はこの喜びを感じ、それが真理の証をしているのだと確信しています。
私は幼い子供の頃から神が生きておられ、私を愛していてくださること、私の祈りにはいつも答えてはくださらなくても、神は祈りに答えてくださることを知っていました。昔、私が1年か2年生だったとき、南カリフォルニアである街角に立って、神に祈りました。神には何でもできるのだということを知るために、実際に可能なよりもはるかに高くジャンプできるように助けてくださいと。一生懸命に心から祈りました。祈りながらも、こんなことは祈るべきではないと承知しながら祈っていました。はたして、この試みは失敗に終わりました。いつもと同じ高さにジャンプできただけでした。しかしこのことで、あのようなことを神に求めるべきではないと自分にはわかっていたのだと確信できたのです。あんなに幼いときから、私は気まぐれな願望を満たすだけのためにしるしを現すことをなされない神に感謝していたのだと思います。私の祈りは望んでいたとおりの「答え」は得られなかったものの、この経験によって、本当に大切なことを心にかけておられる生ける神、愛にあふれた神についての知識を強めることができたのでした。
子供のころ、家族はよく引越しをしました。私はモルモンとして、まわりの人々とは違うのだということを強く自覚していました。自分は他の人々が知らない大切なことを知っているのだと感じていました。自分が神について、またその回復された福音について知っている事柄によって、ある一定の生き方をし、救い主に従って、もっと主のようにならなければならないと信じていました。もちろん私の生活はキリストのようではありませんでしたが、そうではないときには(しばしばそうではなかったのですが)、私にはもっと分別がある、より主に近い生き方ができるはずだと強く感じたものです。
私は学問が好きでしたし、学校が好きでした。が、霊的な学びがもたらす喜びは俗世の学問とは違うことを承知していました。学校で学ぶ事柄は、多くの場合有益で重要ではあっても、神が生きておられること、ましてや神が森の中でジョセフ・スミスに姿を現されたことを前提とはしていませんでした。強烈な喜びにあふれたあの生活の基盤を差し引くと、学校で学んだことのいくつかは教会で学んだことほど大切でないだけではなく、間違っているかもしれないし、少なくとも真実ではないかもしれないと感じました。このことを頭の奥にしまっていた私は、そのために何でも学びたかったにもかかわず、俗世の知識に対して多少の懐疑心をもっていました。
高校を卒業したとき、大学一年生としてブリガム・ヤング大学への入学を期待に胸をふくらませて待っていました。それまでほとんどユタ州外で生活してきた私は、BYU または末日聖徒の学者とはほとんど接点がなかったので、大学でどんな体験をするのか全く予想もできませんでした。とは言え、BYUの教授陣はキリストの弟子であると同時に有能な学者でもあることを知っていたので、大きな希望を抱いていました。そして教授全員は私が霊的なことを学ぶ喜びと世俗的な学問をする喜びを融合できるように熱心に助けてくれるのではないかと、単純にも憶測していました。この二種の喜びは根本的にはそれほど異質なものではなく、両方を結合して一つの美しいものを作り出すことができるはずだと思いました。
BYUでも様々な異なった意見があることに少々驚きを覚えました。「非会員」の中では様々な異なった意見があることには慣れていました(なにしろ彼らは「真理」を知らないのですから)。でもなぜ信仰深い末日聖徒の教授陣が互いに異なる意見を持っているのでしょう。また彼らの多くが、神の存在が何の影響もないかのようにその専門分野を教えるているのでしょうか。 なぜ神が生きておられ、私たちを愛しておられるという中心となるで喜ばしい事実が すべてを変えないのでしょうか。しかし、なぜBYUの教授陣全員が真理を探求するための主要な局面として福音をとらえていないのかと首を傾げる一方、この失望感は私の期待や夢を超越した大勢の忠実な末日聖徒の学者の模範によってくつがえされました。これらの先生方は私の人格構成に、また私がどう考え、信じ、行動するかに深く、重大で、永久的な影響を与えたのです。そして若い時に福音を通して経験した喜びは、天の御父が私のために用意しておいてくださったあらゆる喜びのほんの始まりにすぎなかったのだと悟らせてくれました。
私は新入生であっても、世の中のことを少しは知っていたつもりでしたが、間もなく学ぶべきことがたくさんあること、そして「研究によって、また信仰によって」(教義と聖約88:118)学ぶことが、想像もしなかった新しい展望や知識の世界につながることを知りました。つまり、若いころにはすばらしいと思えた福音から得る喜びは、福音やまわりの世界を理解するための研究や学問を続けて成長するにつれ、高まりを感じてきた喜びに比べると、比較的小さいものであったと感じています。BYUの信仰深い教授陣の指導は、私の成長にとって中心的な存在だったのです。
福音とこの教会は言葉では表せないような喜びと満足感を与えてくれます。福音は主として霊的ですが、しかし知的、感情的、社会的にも、様々なレベルで多くの満足感を与えます。長年にわたる学術的研究によって、末日聖徒の信仰は学問的な課題や年月を超えた重荷に耐えられるものであると知ることができました。この福音を通して限りない疑問を追求し、それに対する答えを得、学び成長し、最大の喜びを発見することができます。この気分を浮き立たせるような学び、新しく開ける視野は永久に続くことがわかります。これは私の心をさらに喜びで満たしてくれます。
このように、私が預言者ジョセフ・スミスを通して啓示されたイエス・キリストの福音を信じる根拠は数多くありますが、これから得られる喜びは、私が求めていることはこれまで費やしてきた、またこれからも費やすであろうすべての時間、労力、努力に値するものであるという確信を与えてくれます。と言っても、この喜びは私があらゆる真理を知り尽くしたり、今理解していることがすべて正しいことを保証するものではありません。全く違います。むしろ、神は人を裏切ることをなさらず信頼に足るお方であり、私が神に従うなら、私の考え違い、無知、弱点、欠点を正してくださり、その恵みによって「教訓に教訓、ここにも少し、そこにも少し」(イザヤ28:10)ずつ神から私を遠ざけるものすべてから私を償ってくださるのです。
おもしろいことに、福音の中で私が成長すればするほど、私はこの地上に住んでいる、または過去に住んだことのある人すべてと、その人の宗教が何であれ、宗教がない人であっても、あまり違わないのだと感じます。末日聖徒の教会とこの福音には比類なく豊かで美しいものが多くあります。これは神の御業であることを知っています。しかし私はずっと以前に、神の御業はこの教会だけには限られていないことを知りました。神はすべての子らを愛し、働きかけられます。そして他の人々が私からすばらしい真理を学ぶように、私も神が他の人々に示された真理を知りたいと願っています。
福音への証が貴重な知識や喜びを与えてくれた一方、神は、それがすべて「宗教的」とは言えないにしろ、様々な方法で神の子らに多くの知識と喜びを与えてくださったことを感謝しています。私とは別の宗教を信じている人々が持つ多くの奥深い真理をもっとよく認識するようになり、それらの真理を学びたいと思っています。すべての子らを愛し、喜んで受ける者には豊かに祝福を与えてくださる神に感謝しています。神は喜びや祝福を惜しむ方ではありません。自発的に学ぼうとしなかったり、一つの方法で学ぶ機会がない人には、別の方法で教えてくださることを感謝しています。とにかく学ぶことはたくさんあって、多くの方法で成長できるのです。
他の人々は、モルモンとして私が学んだ真理をいつかは学ぶ必要があるのは確かですが、私が自分の可能性を極めるためには、同じ宗教を信じていない人々が知っている事柄を私も学ぶ必要があることも同様に確かだと思います。私はすばらしい祝福を与えられていますが、罪や弱点、先祖の言い伝えなどによってそれが見えなくなり、神がその子らに用意してくださっているもっと多くの祝福を受けられないようにしてしまいます。人生や生活を変えるような洞察や理解は数多くの場から与えられますが、それらが良きものであり、真実であり、美しいものと立証されたならば、それらの究極的な原点は神であることを知るのです。私は「さらに大いなる幸福と平安と安息」(アブラハム1:2)があるのを知っているので、大きな期待をもって将来を待ち望んでいます。
最後に、救い主と私たちすべてに与えられる愛について証します。生活の中で毎日神の存在を感じます。それだからと言って、すべての恐れが消えるわけでも、すべての問題が解決されるわけではありません。しかしその事実は私が精神を健全に保つための支えであり、喜びの源です。この世で受けることのできる最大の喜びは、神の奥義、すなわち神はどのようなお方か、私たちは誰なのか、そして救い主の愛と贖いの犠牲によって私たちは何を達成できるのかなど、を理解して、それを心から受け入れることではないでしょうか。聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」1コリント2:9」のであり、「その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」(ヨハネ16:22)のです。
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A.ジェーン・バーチはブリガム・ヤング大学教授センターで教授開発アシスタント・ディレクターである。BYUで歴史学士号を取得後、教授法で博士号を取得。これは新規採用の教授陣が高度な教授法や学識、市民意識の強い基盤を築くためのプログラム。このプログラムの中心となっているのは、BYUの独特な使命である「個人が完全と永遠の生命を探求するのを助ける」を教授陣に理解し受け入れてもらうこと。新教授陣を助けることに加えて、バーチ氏は宗教をそれぞれの専門分野にどのように融合させていくかについて教授陣を助けている。その研究の関心は宗教と知性との関係に軸を置いている。
Posted October 2011
My journey of discovery searching for a life of meaning and purpose has blended two dimensions of life: one religious and one secular. My religion has taught me the importance of faith, hope, and charity; the eternal possibilities of family and friends; and a set of precious values and principles to guide my life. The secular dimension of my life reflects a career in university teaching, management consulting, and village development programming. For me the search for a meaningful life involved four types of experiences:
Why do I go to church? Why do I believe? Probably not for any reasons that would convince the skeptic. It’s easy to find the illogic and inconsistency in professions of faith. And a Mormon’s testimony, with its references not only to Jesus Christ as our resurrected Savior but also to golden plates and prophets in recent times, offers much that sounds incredible to the modern ear. Nevertheless I do believe, and I’ll offer a few reasons in hopes that they’ll invite interest, or at least understanding.
わたしは自然科学者として,これまで語られてきた多くの証に何が付け加えられるだろうかと思いめぐらしたとき,自分がどのような証を持っているかだけでなく,どのようにして証を得たかについて紹介することが役立つのではないかと考えました。わたしの信仰は,特定の事実や一連の事実というよりも,長年積み上げてきた過程を通して真理を受け入れるようになったと言えます。神から霊感と啓示を受けることが可能であって,それを継続できることを証します。この方法は真理を見いだしたいと思っているすべての人に有効であると確信しています。物理学と生物科学を研究する科学者として,わたしは自分が活発で,信仰厚いモルモンであり,いずれの分野にも妥協を必要としない生物物理学者であることに大きな満足感を覚えています。
I am a swimmer. I am a swimmer because my mother needed to maintain her sanity, and so sent us kids off to the YMCA. There, we swam and Mom got a little break.
In 1956 I was serving as a missionary in the Eastern States Mission. On a train ride from Pittsburgh to New York City to attend a mission conference I decided to do something productive (in addition to catching up on sleep) by memorizing scriptures. For some reason I chose the 121st Section of the Doctrine and Covenants. Although I was taking a break from my engineering studies at the University of California, I had always been a little curious about organizations and leadership. Also, while on my mission I was intrigued as I observed the strict conformity to or deviance from mission rules by different missionaries. I remember wondering about the impact of leadership on the behavior of individuals in the church and in other organizations. Of course, this section was an ideal text to address my questions and to provoke further inquiry.
I have always admired those who are able to express their sincere beliefs with conviction but also with humility, particularly to skeptical audiences. It is in that spirit that I attempt to describe the basis of my beliefs. I have spent the past thirty years of my life learning how to be a biochemist—to explore the inner workings of the cell. This fascination with how living things work has been with me as long as I can remember. Other questions arose from this curiosity, such as how did living things come to be and how did I come to be and what was I doing here on this seemingly insignificant planet in an infinitely immense universe? There seem to be only two possible answers to the question of the origin of life—either it was a result of a series of very low probability, random chemical events over billions of years that eventually produced the first cells, which then became more and more sophisticated through a process of evolution by natural selection; or life was the result of the workings of a superior being that we call God. To me, this is the most important question one can pose because the answer determines the purpose of life—either we are here for a reason known to God or by chance.
全米でも有数な大学院で学術的な仕事につくための教育を受けた私が,不信者ではなく信者になったというのはどういうことなのでしょうか。学問に携わる人々の中には,学者というものは宗教的には懐疑論者であると考える人やそう皮肉る人もいます。しかしながら,末日聖徒イエス・キリスト教会においては一風変わった現象が見られます。末日聖徒の中では,より高い教育を受けていればいるほど,その人は教会に活発であり献身的であるというのです。
I was born a member of The Church of Jesus Christ of Latter-Day Saints (the so-called Mormon Church), descended on both sides from ancestors who joined the church in its earliest days. All of which means, with respect to my own membership in the Church and adherence to its teachings, absolutely nothing. Every faithful member must obtain his own testimony, or witness, of the Church and its teachings.
わたしは,この15年間の大半を科学者らしい考え方を身につけることに費やしてきました。つまり,聞くことすべてに疑問を投げかけ,自分が持っている証拠や学んできた事柄と一致するかどうか検証するという姿勢です。このような特性を伸ばしてきたおかげで,科学者またエンジニアであるわたしのキャリアだけでなく,宗教についての理解を深める上でも益を受けてきました。正直,わたしは何事もまず疑ってかかります。これは正しいのだろうか。真実なのだろうか。このような問いかけと,末日聖徒イエス・キリスト教会が教える福音について自分が経験したことを合わせて考えると,わたしにとってたどりつく結論はただ一つ――末日聖徒イエス・キリスト教会の福音と教えは真実であり,それに従えば人は神のもとへ,そしてこの世の幸福へと導かれるということに尽きます。